2.本師殿宝塔
釈尊
祖師堂の裏手にまわると、インドの仏舎利塔に日本の5重塔などに見られる屋根・相輪(そうりん)をのせたような建物が連なっているのが目に入ります。これが釈尊をお祀りする本師殿宝塔(ほんしでんほうとう)です。この度の誕生寺復興50万人講の中心事業の1つとして、昭和61年10月16日に起工式を行い、同63年5月6日に入仏開眼式をして完成しました。インド砂岩の薄い赤茶色をした塔身、そして金色に輝く相輪の先端までの総高は25.9mにもなり、祖師堂の屋根よりも僅かに高くなります。
本師殿宝塔とは、法華経に説き示された久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼仏(釈尊)をお祀りする宝塔です。インドに生まれた生身の釈尊は80才で入滅されましたが、釈尊の本身は限りない過去から永遠に私たちに法華経をお説きになっているのです。そして、この釈尊こそが、私たち一切衆生を救い導いてくれる本当の師なのです。日蓮聖人が「一閻浮題(いちえんぶだい)の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる宝塔」『宝軽法重事(ほうきょうほうじゅうじ)』とお述べになった宝塔が、本師殿宝塔として姿を現したのです。
安置される釈尊像は、あくまでも柔和で穏やかな面相で合掌し、蓮台の上に結跏趺坐(けっかふざ)されています。光背には、8人の天女たちが妙なる音楽を奏する様が彫刻されています。そして、仏体は経典に示されているように、全体が金色に輝いているのです。総高は約3mにもなりますが、小湊弁才天像などを彫った仏師西村房蔵氏が精魂を傾けて作成しました。
釈尊像の背後には、日蓮聖人ご真蹟の曼茶羅本尊を板に彫刻して掲げています。この曼茶羅本尊は、聖人が入滅された時に枕頭に掲げられたもので、「臨滅度時(りんめつどじ)の御本尊」と呼ばれているものです。
釈尊像を囲む壁全体には、信徒の方々が供養のために「妙法」と書写した散華(さんげ)が収められるようになっています。総計33万枚の華が雨のようにふりそそぐのです。これは、法華経が説かれる前兆の1つである雨華瑞(うけずい)の様相を現しています。
釈尊像は、日蓮聖人の尊像を安置した宮殿の背面の壁に向かい合っています。この壁には、清澄山から切り出された樹齢3百余年の杉の柾目板を用いて、釈尊が常に法華経をお説きになっている霊鷲山(りょうじゅうせん)が描かれています。「散華霊鷲山」と題されたこの絵の筆を執ったのは、石川響画伯です。インドへの取材旅行を重ねて完成されました。
釈尊像の真下には、信徒の方々の写経を収める輪蔵があることも、忘れてはなりません。
二天王
釈尊をお祀りする本師殿宝塔の内陣には、ガラスを嵌め込んだ大きな厨子が釈尊をお守りするように左右に安置されています。向かって右側の厨子にお祀りされるのが持国天(じこくてん)、同じく左側が毘沙門天(びしゃもんてん)です。
この二天王は、四天王の中の二天です。四天王は、欲界の六欲天のうちの四天王衆天の主で、須弥山(しゅみせん)の中腹に住み四方の世界を守護する神で、須弥山の頂上の宮殿に住む帝釈天(たいしゃくてん)に従い、また八部衆を従えています。須弥山の東面に住み東方を守る持国天、南面に住み南方を守る増長天(ぞうちょうてん)、西面に住み西方を守る広目天(こうもくてん)、北面に住み北方を守る多聞天(たもんてん)をいいます。このうち多聞天は、梵語を音訳して毘沙門天とも呼ばれます。
四天王は、釈尊が霊鷲山で法華経を説かれたとき、聴衆の中に加わっていることが序品に記されています。日蓮聖人が書かれた曼茶羅本尊にも、法華経の世界を守るようにして四方に勧請されていますから、法華経が説かれる場の守護神として重要な位置を占めていることは明らかでしょう。本堂に安置されているご本尊の諸尊像中にも、四天王がお祀りされています。
四天王は揃ってお祀りされることが一般的ですが、毘沙門天のように単独でお祀りされることもあります。特に持国天と毘沙門天は、薬王菩薩(やくおうぼさつ)と勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)の二聖、鬼子母神十羅刹女とともに五番善神(ごばんぜんじん)に数えられる二天として、日蓮宗では篤く信仰されています。日蓮聖人は、五番善神が法華経の信仰者を守護することについて「陀羅尼品(だらにほん)と申すは、二聖・二天・十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり」(『日女御前御返事』)と示されており、祈願の法要では陀羅尼品に説かれる五番善神の咒(陀羅尼)が繰り返し読誦されます。
誕生寺の二天像は、等身大の大変立派なもので、乾清太郎の作になるものです。明治28年(1895)5月に奉納され、本師殿宝塔が建立される以前は、祖師堂の日蓮聖人を安置したご宮殿の左右にお祀りされていました。施主は、持国天が柳原愛子(やなぎわらなるこ)局、毘沙門天が園祥子権典侍と、皇室の女官がたです。柳原局は、大正天皇のご生母で、後に正二位に進まれ二位局と称せられました。