3.本堂
ご本尊
木の香も新しい本堂にお参りすると、正面奥に一段高まった所があります。これは須弥壇(しゅみだん)といい、その上に安置されている仏像群がご本尊です。
日蓮聖人は法華経信仰のご本尊として大曼茶羅(だいまんだら)を書かれました。この大曼茶羅は、専ら文字によって書かれたものでしたが、後世になると文字の部分を絵画化した絵曼茶羅や、仏像彫刻とすることが行われるようになりました。多くの寺院にご本尊として安置されているのは、この大曼茶羅の主要部分を仏像彫刻としたもので、誕生寺本堂のご本尊も同様です。
ご本尊の最上段の中央にあるのが、髭題目と呼ばれる独自の筆法で書かれた南無妙法蓮華経の題目宝塔です。お題目の筆跡は、26世貫首の大中院日孝上人のもの。その左右、蓮華の花を象った蓮台に坐られているのは、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ・釈尊)と多宝如来(たほうにょらい)です。釈尊は、インドの霊鷲山(りょうじゅうせん)で久遠の昔より法華経をお説きになっています。多宝如来は、釈尊の説かれた法華経が真実の教えであることを証明する仏さまです。手前に立たれている菩薩は、上行(じょうぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩。この四菩薩は、末法に法華経を広めることを釈尊から命じられた菩薩たちの代表です。獅子に乗っている文殊(もんじゅ)菩薩、象に乗っている普賢(ふげん)菩薩は、釈尊に近侍する菩薩として釈迦三尊という形で一般的に知られています。その両脇には火炎を背にした不動明王、三目と六本の腕を持った愛染(あいぜん)明王、四隅には広目天・持国天・増長天・多門天の四天王が法華経が説かれる場を守護するように囲んでいます。そして、一番手前には日蓮聖人が坐られているのです。
ご本尊は、老朽化して取り壊した旧本堂から、この度、新築成った本堂に還座したものです。水戸光圀の寄進であるといわれてきましたが、調査によって貞享元年(1684)7月大仏師左京法眼(さきょうほうげん)康祐の作であることが明らかになりました。この康祐は、京都の7条仏所大26代の正統仏師です。それぞれの像に洗練された彫刻技術を発揮しており、誕生寺のご本尊として誠にふさわしい荘厳な仏像に仕上げています。
鬼子母神
本堂の正面にある、ご本尊をお祀りした須弥壇の上の右よりの位置に、他の諸像よりも少し大ぶりな天女が立っています。右手に石榴(ざくろ)の小枝を持ち、左手は胸に抱いた赤子にそっと添え、身には天衣を纏い、とてもふくよかで慈愛に満ちた姿です。この天女が鬼子母神(きしもじん)です。
鬼子母神はもともとインドの神で、梵語ではハーリティーといい、訶利亭母(かりていも)などと訳されます。鬼神王般闍迦(はんじゃか)の妻で、1万の鬼子(5百、1千ともいわれる)の母です。王舎城の町に来ては幼児を食い殺すという邪神でした。困った人々は、釈尊に救いを求めました。釈尊は、神通力によって鬼子母神の1子を隠してしまいました。そして、お前は万子があるのに1子を失っても嘆き悲しんでいる。ところが世間の人々の子は1子、あるいは数子であるのに、その子をお前は食い殺していると、鬼子母神の悪行を厳しく誡めました。鬼子母神はやっと自らの悪行の罪を悟り、生涯人の命を奪わないことを誓いました。そして、釈尊に帰依したのです。こうして鬼子母神は邪神から仏法を守る善神となり、子授け・安産・子育てなどの神として祀られるようになったのです。
法華経の蛇羅尼品では、鬼子母神は十羅刹女(じゅうらせつじょ)とともに法華経信仰者を擁護しその患いを除くことを誓っています。さらに、法華経を布教する者を悩ます者を罰することが説かれています。
日蓮聖人は、この様な鬼子母神について「鬼子母神、十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり」(『経王殿御返事』)と、法華経信仰者の守護神であると述べられています。そして、曼陀羅本尊の中に十羅刹女と対して鬼子母神を書き入れられました。このような訳で、日蓮宗では守護神、さらに祈祷のご本尊として鬼子母神をお祀りする寺院が多いのです。日蓮宗の鬼子母神の姿には二種類あります。一つは天女姿、もう一つは鬼女姿です。鬼女姿は鬼形鬼子母神と呼ばれ、多くはご祈祷のご本尊としてお祀りされます。
誕生寺に鬼子母神がお祀りされるようになったのはいつ頃のことであるのか、詳しい記録は伝わっていませんが、元禄14年(1701)に26世貫首となった大中院日孝上人が記した「小湊山二十四境」には「鬼子母殿」とありますから、この頃には鬼子母神をお祀りしたお堂があったことがわかります。現在の尊像は、元はご本尊と別にお祀りされていたものですが、新本堂の完成によって須弥壇上にお祀りされました。
日家・日保上人
誕生寺の開山が日蓮聖人であることは、よく知られています。しかし、事実上の開山が聖人の弟子日家(にけ)上人と日保(にほ)上人の二人であることは、案外知られていないようです。
小湊から程近い上総興津(現在の勝浦市)の豪族佐久間兵庫助重吉に3人の子があって重貞・重則・竹寿麿といい、竹寿麿は正嘉2年(1258)の生まれでした。長男重貞にも同じ年に子が生まれ、長寿麿と名付けられました。
元永元年(1264)日蓮聖人は小湊の生家をたずねられ、今まさに息を引き取られた母上を蘇生させました。この霊験を聞いた興津の重貞は、さっそく聖人を招いて説法を聴聞し、深く帰依するようになったのです。この時竹寿麿は、願って聖人の弟子となり、後に竹寿麻呂は寂日房日家、長寿麿は郷公日保として、六老僧に次いで重要な弟子である中老僧に数えられるようになりました。
日家・日保両家上人は力を合わせて佐久間氏の館にあった持仏堂を改めて妙覚寺とし、また聖人誕生の地に誕生寺を開きました。そして両寺の開山には聖人を仰ぎ、誕生寺においては二世日家、三世日保、妙覚寺においては二世日保、三世日家としたのです。
本堂の右上段の間、花頭祭壇には誕生寺歴代貫首の位牌をお祀りしています。その中央最上段に安置されているのが、両上人像です。左側が日家上人、右側が日保上人像です。
日家上人像は、以前は新本堂の建設に伴って解体された旧本堂の右側祭壇中央最上段に安置されていましたから、ご存じの方もいらっしゃることでしょう。袈裟・衣を纏って結跏趺坐(けっかふざ)し、手には何も持たずに胸の前で合掌したお姿です。色彩は生身のものではなく、墨一色の「黒いお像」で、きりりとした顔立ちのなかに玉目とわずかに朱をさした口元が浮かび上がっています。
日保上人像は、新本堂建設に伴って造立されたものです。本師殿宝塔の釈尊像や小湊弁才天を彫った仏師西村房蔵氏が、今回も鑿をふるわれました。穏やかな中にも引き締まった顔立ちで、衣の襞も大変柔らかに表現されています。全体の大きさやお姿は、日家上人像とのバランスを取って同様のものとなっています。彩色も古色仕上げがされていますから、遠目には日家上人像との区別が難しい位です。