千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

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4.誕生堂

4.誕生堂

日蓮聖人ご幼像

日蓮聖人のご幼像といえば、まず祖師堂手前の左手に安置される銅像のお姿が思い浮かびますが、誕生寺には聖人誕生の霊跡にふさわしくご幼像をお祀りするお堂があります。総門を入って間もなく、参道左手の階段を登ったところにあるお堂がこれです。「誕生堂」と揮毫された大きな扁額が掲げられています。現在のお堂は、従来のお堂を昭和58年に大改修して面目を一新したものです。

日蓮聖人が安房小湊の地に誕生されたのは、鎌倉時代も半ばの貞応元年(改元前の昇久4年、1222)のことです。誕生については、次のように伝えられています。この年の2月、小湊では、季節外れの蓮華が咲き、普段は海深くすむ鯛が海面近くに無数に集まり、人々はなにか良いことがおこる前触れであろうと話し合っていました。

折しも16日の早朝、貫名(ぬきな)重忠の家では、妻梅菊が産気付いています。重忠は身を清め、昇る朝日に向かって一心に妻の安産を祈ったのです。すると産室には香気がただよい、昼ごろには玉のような男の子が産まれました。この時、貫名家の前庭からは清らかな泉が湧きだし、家人は早速産湯に使ったといいます。この泉は、今も「誕生水」の井戸に名残を止めています。

これより先、梅菊は日輪が自分の懐に入る夢を見、その後、身ごもったのです。重忠は、この吉日にちなんで生まれた子に善日麿(または薬王丸とも伝える)と名付けました。この善日麿こそ、後の日蓮聖人です。

善日麿は、両親の愛情に育まれ、また周囲の人々にも暖かく見守られながら、慈悲深い子供へと成長していきました。そして12歳になった時、勉学のため親元を離れ、房総随一の山にある清澄寺へと登られました。

誕生寺にお祀りされる日蓮聖人のご幼像は、小型の座像で、袍に袴を着して右手に中啓(ちゅうけい・扇の一種)を持ち帯刀しています。現在は、お像の上から更に別製の衣を着せています。お顔の印象は、銅像よりも少し年長に見受けられます。

誕生寺では、日蓮聖人誕生の聖日である2月16日に聖人の誕生を記念し、報恩感謝のため誕生会大法要を行います。この法要で中心となる行事がご幼像の徒御(とぎょ)です。普段は誕生堂にお祀りされているご幼像が、聖人のご両親のお墓がある妙連寺から、誕生の聖地である誕生寺まで輿に乗り大勢の僧侶や信徒を従えて行列するのです。誠に誕生寺にふさわしい法要であるといえましょう。


日蓮聖人のご両親

日蓮聖人ご幼像をお祀りする誕生堂には、聖人のご両親もお祀りしています。正面向かって右側の厨子に安置されているのが父上、左側の厨子が母上です。お像の上から別製の衣を着せているため直接伺うことが出来ない部分もありますが、父上はおごひげを蓄え烏帽子(えぼし)を被り袍に袴を着して大刀を帯びた武士の姿、母上も武家の女房の姿をされ、共に合掌しています。

日蓮聖人のご両親がどのような方であったかということについては、明確には分かっていません。父上は三国氏、あるいは藤原氏から出た貫名氏であるといわれ、遠江国に住んでいましたが訳があって安房国に流されたと伝えられています。聖人はご自身について「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子」(「本尊問答抄」)などとのべられていましたから、父上が漁民であったことがわかります。幼い聖人を勉学のため清澄寺に登山させていることから見ても、地元で荘官あるいは名主(みょうしゅ)などを務める、ある程度地位のあった人でしょう。

聖人は、清澄山1の、さらには地元の人々の期待を一身に担って比叡山へと留学します。そして、10年にも及ぶ研鑚から帰郷した聖人を迎えたご両親は、我が子が師とも頼むべき立派な僧侶となったことに涙したに違いありません。ところがその聖人が、法華経信仰のために、清澄寺そして故郷から追われようとは。

しかし、大変な驚きの中で、ご両親は聖人の最初の信仰者となられたのです。聖人はご自身の名前からそれぞれ1字をとり、父上に妙日、母上に妙連と法名を授けられました。ご両親の入信に、聖人はどんなにか心強く、また安堵されたことでしょう。ご両親を、無間(むけん)地獄に堕ちることから救うことができたのです。

文永元年(1264)、父上の墓参りを兼ねて帰郷した聖人は、危篤となった母上を法華経の祈りによって蘇生させました。病の癒えた母上は、その後4年間寿命を延ばされています。

ご両親の像は、16世貫首の守玄院日領上人が、師範日祝上人への報恩謝徳のために造立しました。26世日孝上人の「小湊山24境」に「薬王殿」(聖人の幼名は薬王丸とも伝えられます。)とあり、また木版「小湊山絵図」には「たん生堂」が描かれていましたから、ご両親像は日蓮聖人ご幼像と共にこのお堂にお祀りされていたものでしょう。そして、元禄16年(1703)の大地震・大津波、宝暦8年(1758)の大火にも失われることなく、現在へと伝えられたのです。