5.太田堂
太田稲荷
総門から人王門へと参道をたどりながら左手を見ると、山になっています。この山へと石段で上った所に誕生堂がありますが、さらにその上方に見えるのが太田堂です。このお堂は、法華経の信仰者を守護する太田稲荷大明神をお祀りしています。
神像は、顎髭をたくわえた老人の相貎で、冠をいただき、束帯を着して右手に笏をとり、太刀を帯します。袍の胸には、太田氏の家紋である五弁の桔梗紋(ききょう)を付けています。
太田稲荷大明神とは、「太田家の守護神であるところの稲荷大明神」ということです。この太田家は、江戸城を初めて築いた、つまり現在の東京のルーツを開いたことで有名な太田道灌の出た家で、もとは丹波国太田郷(京都府亀岡市)から出た清和源氏の流れをくむ武家です。太田道灌の曾孫で膂力他に優れるといわれた新六郎康資は、房総の雄里見氏と関東に覇をとなえようとする小田原の北条氏の間に永禄七年(1564)正月戦われた国府台の合戦に里見氏方の武将として参戦しましたが、敗れて後に安房に移り、天正九年(1581)10月12日に51歳で無くなります。そして墓は縁あって誕生寺に営まれました。この康資が守護神としていたお稲荷さんが、太田稲荷大明神なのです。
お稲荷さんというと稲作・農業の神とされるほか、漁業、商業・福の神として平安時代以降人々の厚い信仰を受けてきた京都の伏見大社が有名でしょう。仏教のお稲荷さんでは、愛知県の豊川稲荷(曹洞宗)や岡山県の最上稲荷(日蓮宗系)がよく知られています。
誕生寺の太田稲荷大明神は、神道ではなく、日蓮宗のお稲荷さんとして法華経によってお祀りされています。特に海上安全守護に霊験があらたかであるといいます。毎年2月の初午(はつうま)の日に行われる大祭には、地元の漁業関係者をはじめとして近隣の市町村からも信徒の参詣があり、賑わいをみせます。参詣者は、各々にその年の大漁や商売繁盛などのご祈祷をうけるのです。
太田堂への参道は誕生寺の左手、総門を入って少し行った辺りから山手へと登る道でしたが、現在の参道は、日蓮聖人ご幼少の銅像の後ろの辺りから坂道を総門の方向に登るようになりました。
お堂は、55世貫首智現院日梼上人の代の文久3年(1863)10月に、信徒の浄財をもって建立されたものです。その後、昭和53年に改修されています。
七面大明神
太田稲荷をお祀りする太田堂には、他にも守護神をお祀りしています。七面大明神(しちめんだいみょうじん)もその一つで、七面天女、七面大菩薩ともいい、吉祥天の応化であるとされる法華経守護の善神です。そのお姿はふくよかな天女で、岩の形をした台座に腰掛けています。身に天衣を纏い、頭には宝冠を頂き、左手には宝珠を、右手には宝鑰(ほうやく・かぎ)を持っています。
七面大明神がはじめてお姿を現されたのは、日蓮聖人が身延山にお入りになって4年目を迎えた建治3年(1277)のことです。聖人は沢辺の大きな石の上に座していつもの様に説法をされていました。聖人の傍らでは、うら若き女性が1人熱心に聞き入っています。この辺りでは見かけない顔なので、村人たちがどこの者であろうかと怪しんでいることを察した聖人は、説法が終わるとその女性に本体を現すようにお命じになりました。すると、この女性は美しい顔に笑みを含み「私は仏さまのご命令を受けて、法華経を信ずる末法の人々を守護する七面大明神です。身延山の西方にある七面山に住んでいます」といって聖人に一滴の水を乞うたので、聖人が傍らの花瓶の水を与えるとたちまちに姿を変えて身のたけ2丈ばかりの龍となりました。晴天にわかにかき曇り、龍は金の鱗をきらめかせて渦巻く雲に隠れて西を指して飛び去ったのです。その後、聖人が亡くなって16年目の永仁(えいにん)5年(1297)9月18日、日朗上人と南部実長(さねなが)公は七面山に登り、山頂の一の池の傍らに七面大明神をお祀りしました。このようにして、七面大明神は法華経守護の神として広く信仰されるところとなったのです。
現在のお像をお祀りしたのは、47世貫首の智音院日濤上人です。文化12年(1815)4月、江戸に布教のため滞在していた日濤上人は、牛込で七面大明神のお像の1体を入手されました。このお像は心性院日遠上人の開眼であると伝えられる、大変由緒あるものでした。
日遠上人は江戸時代初期の日蓮宗を代表する指導者で、身延山久遠寺22世、池上本門寺16世などを歴任し、お万の方の帰依をうけて菩提所大野山本遠寺の開山になっています。お万の方は、それまで女人禁制であった七面山にはじめて登詣した女性として有名です。
このような縁深いお像でしたから、日濤上人は早速に傷みを修復し、誕生寺の鎮守として永くお祀りすることとしたのです。
妙見菩薩
太田堂には、七面大明神をはじめとする守護神をお祀りしていますが、妙見(みょうけん)菩薩もその1つです。
妙見菩薩は梵語スドゥリシュティの訳で、妙見尊星王・北斗妙見菩薩ともいいます。北極星(北斗)を神格化したもので、あらゆる星宿のなかで最も優れたものであるといわれます。国土を守護して敵を退け、人の幸福や寿命を増妙見菩薩す菩薩です。
わが国では奈良・平安時代以来、儒教的、密教的な形式で信仰され、また神道とも習合して多くの妙見宮がお祀りされました。武士が台頭して来る鎌倉時代以降になると、千葉氏・大内氏・名和氏・相馬氏などの地方の有力な武士により、武家の守護神(軍神)として信仰をあつめるようになります。さらに、道教の鎮宅霊符神とも習合しています。江戸時代には、海上安全神、五穀豊穣神、商業神、眼疾平癒の神、安産の神、子孫繁栄・良縁恵与の神などとして、広く人々の信仰するところとなりました。
日蓮宗においても、妙見菩薩は多くの寺院にお祀りされています。たとえば、中山法華経寺の大檀越であった千葉胤貞が法華経寺のご宝前に神田を奉納したのは、鎌倉時代末の元応2年(1320)のことです。
戦国時代の末から江戸時代のはじめにかけて各地に開かれた日蓮宗の檀林(だんりん・僧侶の学校)では、学問の神としてお祀りされました。なかでも、養珠院お万の方が寄進した飯高檀林の妙見堂は有名です。
江戸時代、参詣の信仰をあつめ広く人々に知られたところでは、江戸柳島の妙見(法性寺)、大阪久々知の妙見(広済寺)、能勢(大阪府)の妙見(真如寺)などがあります。能勢などは、他宗の人々も「百日法華」といって俄か改宗をして参拝したといいますから、繁盛の程が窺えます。
太田堂の妙見菩薩は、岩座の神亀の上にすっくと立ち、総髪姿で両手で宝剣を地に立て、後光は七星を示しています。造立の年代を示す銘文等は発見されていませんが、江戸時代の作であると考えられます。太田堂とは別に、本堂須弥壇上にも妙見菩薩をお祀りしています。太田堂の尊像は美しく彩色されていますが、本堂の方は墨色でお姿も少し異なっています。誕生寺には、かつて文化13年(1816)47世貫首日濤上人の代に再建された妙見堂がありましたから、2体の尊造のうち1方はこのお堂にお祀りされていたものでしょう。
清正公
太田堂には、いろいろな守護神をお祀りしていますが、清正公もその一つです。清正公は、戦国時代末から江戸時代初めにかけて活躍した武将で、日蓮宗の篤信者としても有名な加藤清正のことです。その死後、諸願成就を祈る神としてお祀りされるようになりました。
清正は、永禄5年(1562)に尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)で生まれました。豊臣秀吉と同郷で、幼少より秀吉に仕え、天正8年(1580)にはじめて120石の領地をたまわり、賤ケ岳の戦での7本槍の1人としての大活躍などの功績により、天正11年には領地3千石、与力20人を抱える武将となりました。その後、天正16年に肥後半国19万5千石の領主として隈(熊)本城に入ります。文禄元年(1592)朝鮮の役では先鋒として従軍し、秀吉が没した後、慶長5年(1600)の関が原の戦の後には肥後1国54万石の領主となりました。
清正の日蓮宗帰依は、母親の感化が大きかったと思われます。天正13年(1585)には日真上人を招き大阪に本妙寺を創建し、肥後入国とともに熊本へ移建します。清正は、慶長16年(1611)6月24日熊本城で没しますが、遺骸は生前に定められていた中尾山中腹に廟所を造営しておさめられます。現在の本妙寺浄泄廟がこれです。
「虎退治」の逸話にうかがわれるように清正は武勇の将であり、治国の名君・仁慈の領主として次第に尊崇されるようになりました。さらに、その熱烈な法華経信仰に加え、子息忠広の代に起こった加藤家断絶という悲劇などが結び付き、常の人とは異なった能力をもつ権化の人であるとの観念から、諸願成就を祈る神として広く人々に信仰されるようになったのです。
清正公信仰は、廟のある熊本本妙寺を中心に盛んとなり、現在も参詣の人々が絶えません。廟へ向かう参道を埋め尽くさんばかりに建てられた石灯籠の寄進の数に、信仰の篤さがうかがえます。
この他、江戸では白金覚林寺、浅草幸龍寺(現在は世田谷区に移転)などが有名でした。
誕生寺のお像は、鎧兜に身を固め、腰には太刀を帯び、床几(しょうぎ)に腰掛けた姿です。全身は黒く塗られていますが、鎧兜には加藤家の紋所である蛇の目が金泥によって大きく記されています。誕生寺には、かつて間口2間、奥行き2間半の清正公堂がありました。61世豊永日良上人の明治23年(1890)6月に建立されたものです。現在のお像は、このお堂にお祀りされていたものでしょう。