14.蓮華潭涌現の宝塔
仁王門に向かって右側手前にある、南無妙法蓮華経のお題目を刻んだ宝塔は塔身が大変風化摩滅しています。蓮華潭(れんげがふち)の海中から発見された石塔を塔身に用いて造立された、蓮華潭涌現の宝塔です。塔身は高さ1メートル80センチ、幅45センチ、奥行き32センチと細長く、蓮台などの台石の部分が1メートル37センチ、さらに基台が1メートルありますから、総高は4メートル17センチにも達します。
蓮華潭というのは、日蓮聖人が誕生される前、小湊の地に時ならず蓮華の花が咲いたという吉瑞に由来しています。磯村に誰が植えたというまでも無く蓮が生えて来て、やがて白銀のような白蓮華の花を咲かせたといいます。聖人が誕生した地は、その後、明応7年(1498)の地震・津波によって海中に没して磯となりましたが、蓮華潭として吉瑞の跡を後世に伝えています。
元禄14年(1701)26世貫首となって誕生寺の復興に当たった大中院日孝上人は、誕生寺が日蓮聖人誕生の霊地であることを高く掲げました。その中で、誕生山寺の碑や誕生泉の碑(何れも現存)を、そして蓮華潭にも蓮華潭の碑を造立しました。元禄15年(1702)のことです。ところが、翌16年11月に起きた大地震・津波によって蓮華潭の碑は失われてしまったのです。
その後、百数十年を経たある日、蓮華潭の海中から表面がすっかり風化摩滅した石塔が発見されました。日孝上人が造立した蓮華潭の碑であったのです。時の貫首であった61世豊永日良上人は、早速に蓮華潭の碑の再建を進められました。海中より発見された石塔を塔身して、正面にお題目、左面に「南無日蓮大菩薩」、右面に「蓮華潭涌現之塔」、そして裏面には日孝上人の「蓮華潭銘」を新たに刻みました。明治19年(1886)3月13日のことです。日孝上人の銘は風化摩滅してはっきりとしない部分もありますが、おおよそ「(〈莫〉摩滅)言蓮華不産海中普陀山西銕蓮玲瓏/(〈莫〉摩滅)言蓮華不産海辺誕生山南白蓮玉鮮(言うこと莫かれ、蓮華の海中に産せずと。普陀山の西、銕蓮玲瓏たり。言うこと莫かれ、蓮華の海辺に産せずと。誕生山の南、白蓮玉のごとく鮮やなり)」と判読されます。
宝塔の再建造立に当たっては、末寺や多数の檀家・信徒の人々の寄進によって門前海岸の波除け石垣が三百間(540メートル)にわたって築造されたことも、台石に刻まれています。