18.水屋の水盤
仁王門から祖師堂への参道の中程右側に、鐘楼のように四方吹放ちの建物が有ります。中央には、常に清水が一杯に張られた石造の大きな水盤が据えられ、数本の柄杓と手拭が備えられた水屋です。
水盤は手水鉢(ちょうずばち)ともいい、神仏にお参りする前に、手を洗い口をすすいで清める水(手水)をためておくものですから、水屋は水を飲むための場所ではありません。
誕生寺の境内には幾つかの水盤がありますが、この水盤は最も大きくて立派なもので、幅1メートル84センチ、奥行き89センチ、高さ70センチあり、高さ20センチの台石の上に乗ります。正面中央には井桁に橘の紋が浮き彫りにされ、その右側に「小湊山」左側に「誕生寺」と山号寺号が刻まれています。
水盤の造立は文政五年(1822)三月のことで、水屋も同年に建てられました。貫首は四十七世日濤上人の代です。これだけ大きな水盤ですから、費用も中々に大変であったことでしょう。周囲には、施主となった信徒の名前が多数刻まれています。
まず、本願主として当村(小湊)の万屋市助、江戸世話人として日本橋万町の鴻池清兵衛、平松町の駿河屋弥兵衛・妻いそ等の六名が名を連ねています。さらに、江戸として日本橋の伊勢屋治右衛門など七十余名、最後に内浦村世話人杉浦倩三良とあります。まさに数多くの人々の浄財によって造立されたものだったのです。
ここに名前を連ねた人々は、本願主・内浦村世話人を除いて全て江戸の住人でしたから、誕生寺の信仰の広がりが窺われます。また、大多数の人が伊勢屋・三河屋などの屋号を称していることや、居住地から、何れも商人でありましょう。江戸時代の後半、江戸の庶民の間では講が大変盛んで、日蓮宗信仰の講も数多く結成されました。銘文には特に講の名称は刻まれていませんが、なにがしかの講が関係していたことでしょう。
現在、水屋は祖師堂にお参りする方のためにありますが、造立当時の誕生寺は宝暦八年(1758)の大火災による伽藍焼失からの復興の最中でした。十万人講の浄財によって祖師堂の建設工事が着工されるのは天保三年(1832)、そして落成するのは弘化三年(1846)のことです。祖師堂に先立って惣門、三門、鐘楼堂、誕生堂、釈迦堂、方丈等が完成していましたから、水屋も復興事業の一つとして建設されたものでありましょう。