21.誕生山寺の碑
境内の左手山裾、旧来の墓地の入り口近くに無縁の石塔を集めた所があります。ちょうど日蓮聖人ご幼像の銅像の後ろ側に位置しますから、気の付かれない方も多いことでしょう。その一画に、人の背丈を越える大形の石塔が一基あります。日蓮聖人誕生の霊地を讃えた誕生山寺の碑です。
碑は項部に緩く円みを付けた一枚石で、高さ約2メートル、幅80cm、厚さ30cm程、わずかに末広がりですが、背面は鑿で切り出したままです。碑面は枠を取ったように周囲から掘り下げてあり、碑文が刻まれています。「茲山是菩薩之生処(この山はこれ菩薩の生処)」と始まる文章は10行にわたっていますが、残念なことに碑面の風化が著しく、特に左半分はほとんど文字を判読することが出来ません。最末の行は辛うじて「元禄壬午十五年・・・・・誕生山寺・・・・・大中・・・・・」と読めますから、この碑が元禄15年(1702)に建立されたことがわかります。この年は、大中院日孝上人が26世貫首の在住中ですから、文中の「大中」は日孝上人に違いありません。碑文は日孝上人の撰であったのです。
日孝上人は、若くして京都深草の元政(げんせい)上人に学び、書や詩文を善くしました。その一端は、平生の詩文を没後にまとめた『水雲集』2巻や、「扶宗明文志」に収録された様々な文章によって窺われます。元禄14年(1701)誕生寺の26世貫首となって後は、誕生寺にかかわる詩文や書を数多く残しています。「小湊山十二景、同夜八景、同二十四境、同七嶺」や「小湊山十二景詩」などは、当時の誕生寺の様子を明らかにする資料としても注目されます。誕生山寺の碑は「山寺碑銘」として「小湊山二十四境」の一つに数え上げられていました。
元禄4年(1691)、誕生寺が主張していた悲田不受不施派(ひでんふじゅふせは)は、幕府から禁止されます。その痛手からの復興に当たって、日孝上人は誕生寺が日蓮聖人誕生の霊地であることを高く掲げた、その一つが誕生山寺の碑でありましょう。
碑文の全体は、幸いなことに『水雲集』と明治42年(1909)発行の宮野新之助著『小湊大観』に収録されています。