千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

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24.里見氏の供養塔

24.里見氏の供養塔

無縁墓地の最上段左手には、舟を垂直に立てたような形をした石塔が3基並んで建てられています。

左右の2基は、戦国時代、安房国を中心に房総半島で勢力を誇った里見氏3代の、中央の1基は里見氏麾下(きか)の有力武将正木(まさき)氏の供養塔です。

石塔の形は、江戸時代前期に特有のもので、正面はきれいに削り出されていますが、裏側は粗削りのままです。高さ1メートル10センチ弱、幅40数センチと、何れもほぼ同じ大きさですが、右側の1基は2つの石碑を合わせた形の連碑形式になっています。

供養塔は、向かって左側が里見義頼、中央が正木頼忠、右側が里見義康・忠義のもので、法名と命日が里見義頼「大勢院殿勝巌泰英大居士」「天正十三乙酉年(1585)十月二十六日」、正木頼忠「了法院殿環斎日正居士」「元和八壬戌八月十九日逝」、里見義康「龍潜院殿傑山芳英大居士」「慶長八癸卯年」(1603)十月十六日」、同く忠義「高源院殿華山放牛大居士」「元和八壬戌年(1622)六月十九日とそれぞれに刻まれています。この中で忠義の法名は、一般に伝えられるものとは異なっています。

里見氏は、清和源氏の流れをくむ新田義俊が上野国里見郷(群馬県榛名町)に住み里見氏を称したことに始まります。安房国の里見氏は、この上野国里見氏の一流が室町時代に安房国に至り勢力を得たものであると伝えられますが、明確ではありません。八犬士が活躍する滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の舞台となるのもこの頃のことで、義実の時代です。

戦国大名として大きな勢力を持つようになるのは義堯の時からで、小田原の北条氏と対抗しながら、上総から下総へと勢力の拡大をはかります。当時、重要な交通路であった東京湾にも、勢力を及ぼしています。北条氏滅亡の後は豊臣秀吉配下の大名となり、関ヶ原の合戦後は徳川家康配下の大名となりました。ところが、慶長19年(1614)忠義の時、大久保忠隣が家康の不興をかい改易(かいえき)となった事件に連座、共に改易(領地の召し上げ)になったのです。忠義は伯耆国倉吉(鳥取県)に流され、元和8年(1622)に死去、里見家は断絶しました。

戦国時代の誕生寺の寺領は、正木氏から寄進され里見氏の安堵を得たもので、七十石あったといいます。慶長8年(1603)里見義康の死去に当たっては、正木頼忠から位牌料として二十石の寺領が寄進され、十五世貫首日然上人が隠居して龍潜寺が開創されました。正木氏は日蓮宗で、誕生寺には天正20年(1592)正木頼忠が寄進した紺紙金泥の法華経の写経なども伝わっています。このような関係から、3基の供養塔は造立されたものでしょう。