28.胞衣の松の碑
誕生堂右手の山際には四基の石搭・石碑が並んで建てられています。一番左手にある、切り出した形そのままの石材を用いた石碑が、胞衣(えな)の松の碑です。石碑の本体は板状で、高さ1メートル40センチ、幅98センチ、厚さ17センチあります。台石は高さ53センチ、幅1メートル50センチ、奥行き45センチです。碑文は、変体仮名を交えた草書で四行に散らし書きされ、「あな尊ふと妙法(たえのみのり)を万代(よろずよ)につたえ栄むこのえな(胞衣)の松」と読めます。胞衣の松を詠った和歌です。碑は、清正公堂をお守りしていた竹本妙栄尼を本願主に、日蓮聖人生誕670年に当たる明治24年(1891)10月に建立されました。61世貫首豊永日良上人の代です。
誕生堂の傍らには、かつて小さな塚があり、松の木が一本生えていました。塚は抱衣塚、そして松の木は胞衣の松と呼ばれていました。貞応(じょうおう)元年(1222)2月16日、日蓮聖人が誕生されたとき、その胞衣を埋めたと伝える塚です。
胞衣は、母親の体内で胎児を包んでいた膜と胎盤のことで、胎児が分娩した後の後産で母体から下ります。生まれた児の分身であり、霊魂の一部を担っていると考えられていましたから、丁重に扱われてきました。「胞衣と一緒に扇を埋めればその子は出世する」などと言われますが、男児の場合には墨と筆、女の場合には針と糸などを添えて、家の入り口の敷居の下、大黒柱の下、産室の床下、便所や馬屋のそば、あるいは墓地などに埋められていました。埋められた場所は、良く踏み固めなければならないといいます。日蓮聖人の伝記本には、漢文の『元祖化導記』(がんそけどうき)『日蓮聖人註画讃』(にちれんしょうにんちゅうがさん)から、仮名交じり文で記された一般向けの『日蓮大士真実伝』(にちれんだいじしんじつでん)等に至るまで、胞衣塚、胞衣の松について記したものは見当りません。しかし、26世貫首の大中院日孝上人が、「小湊山二十四境」のひとつに「胞衣塚」を掲げ、安積艮斎(あさかこんさい)著『南遊雑記』にも「松あり、胞松と曰う」と記されていましたから、江戸時代には聖人の誕生にまつわる遺跡として伝えられていたことがわかります。
胞衣塚には日蓮聖人の霊力が宿っていると考えられるところから、子易(こやす)(子安)明神がお祀りされました。木版『小湊山絵図』にも「ゑなの松」とともに「子安明神」のお堂が描かれています。お産は母子共に死と隣り合わせの危険を伴うものでしたから、安産を祈る近隣の女性たちから大いに信仰されました。産婦が生み月を迎えると、その親御さんからの依頼により、子安講の人々がお籠もりをして安産を祈願します。現在は子安堂がなくなったため、太田堂が使われるそうです。