千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

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29.日朝上人報恩塔

29.日朝上人報恩塔

胞衣の松の碑の右隣にある石塔は、塔身の高さ80センチと並んで建てられている4基の石塔・石碑の中では一番小ぶりです。正面(本来の右側面)に「四百遠忌御報恩塔」左側面(本来の正面)に「行学院日朝大上人」と刻まれた、日朝上人の四百遠忌(おんき・400回忌)の報恩供養塔です。

日朝上人は行学院と号し、身延山久遠寺の11世貰首です。応永29年(1422)伊豆の宇佐見に生まれた上人は、8歳で日出上人について出家しました。勉学、修行に日夜精進し、寛正3年(1462)41歳のときに身延山の貫首となります。

当時の身延山は、日蓮聖人のご廟所がある西谷(にしだに)に本院がありましたが、谷合であるために十分な広さがありません。そこで日朝上人は、山の南側斜面を削って広い平坦地を造成し、本院を移転させました。現在、大本堂・棲神閣(せいしんかく)をはじめとする諸堂が建ち並ぶ場所です。大変な工事であったことでしょう。

日朝上人の業績は、さらに教学の振興や教育の面にも及んでいます。日蓮聖人遺文の注釈書や法華経関係の注釈書をはじめ数多くの著書を執筆しました。門下の教育のためには、天台宗の談所で行われていた論義の制度を取り入れたりしています。明応8年(1499)弟子の日意上人に貰首職を譲った日朝上人は、翌9年(1500)6月25日に79歳で没しました。

江戸時代になると、日朝上人が晩年の眼病を法華経信仰の力によって癒して多くの著書を残したところから、上人は眼病守護の神様としてお祀りされるようになりました。誕生寺に日朝上人がお祀りされた年代ははっきりしませんが、江戸時代にあった塔頭(子院)の一つである辻之坊の目覬上人が、安政4年(1857)に朝尊堂を再建していました。現在、本堂の後戸に日朝上人の小像が安置されています。お像は江戸時代の作で、辻之坊日受上人の代、更に日覬上人の代に再び修理されていましたから、恐らく朝尊堂にお祀りされていたお像です。朝尊堂は辻之坊がお守りしていたのです。戦前には朝師堂が太田堂・誕生堂の近くにあり、老若男女の参詣を集めていましたが、お堂は残念なことに老朽化のため解体されました。この朝師堂が朝尊堂でしょう。

報恩塔は朝師堂の堂守を勤める福沢妙孝尼を発起人、地元の信徒を世話人とし、日朝上人への報恩感謝の意を込めて四百遠忌正当の明治32年(1899)6月25日に造立されました。