30.清正公三百年祭紀念碑
誕生堂から左手に進むと、一段低くなった所があります。山際には太田堂へと登る旧参道の入り口が残されていますが、そのすぐ脇に石碑が一基建てられています。清正公三百年祭紀念碑です。
清正公は、戦国時代末から江戸時代はじめにかけて活躍した加藤清正のことです。武勇の将、築城の名手として名高く、日蓮宗の篤信者でもあります。その死後、権化(ごんげ)の人であると観念され、次第に所願成就の神としてお祀りされるようになりました。
石碑の本体は切り出し刀のような形をした板状で高さ1メートル94センチ、幅93センチ、厚さ15センチ、表裏共に長方形に一段掘り下げた面に碑文が刻まれています。台石は高さ42.3センチ、幅1メートル18.5センチ、奥行き43.5センチ、やはり正面が一段掘り下げられ、その中に銘文が刻まれています。
碑面中央には「清正公三百年祭紀念之碑」とあり、その右側には「扶桑極処誕金仙妙法難持五百年今日来登霊仏徳海潮音裡洗塵縁」と漢詩が、左側には「時なれや妙の浦曲(わ)に咲く花の日の本匂ふ法の一輪」と和歌が刻まれています。特に和歌は他の部分と異なって草書です。漢詩は、清正が慶長年間のはじめ頃(1596~)誕生寺に参詣した時に賦したもの、和歌は、その折に朝鮮国王子臨海君の子息へ賜ったものであると伝えられています。文禄の役の時、臨海君の子二人を来朝させ、わが子のように養育したのは清正です。長じて姉は戸川氏の室となり、弟は出家して可観院日廷と称し、誕生寺十八世貫首として大いに活躍しました。
碑の裏面を見ると「明治42年(1909)陰暦六月建立」と建立の日付が刻まれています。清正が没したのは慶長16年(1611)6月24日のこと、50歳でした。したがって、三百年祭すなわち三百回忌の正当は明治43年となりますから、紀念碑は1年先立って、祥月命日を期して建立されたことがわかります。六十六世貫首金塚日梵上人代のことです。
当時誕生寺には、間口二間奥行き二間半の清正公堂があり、竹本妙栄尼が堂守をしていました。紀念碑の建立は、この妙栄尼を発願人として行われたもので、特別寄付に東京の芝・千駄ヶ谷・神田・京橋・新橋等の信徒、そして永運講中が名を連ねています。清正公は「せいしょこさん」と親しみを込めて呼ばれているように、今に人々の信仰を集めています。