31.太田新六郎康資の石塔
総門をくぐって間もなく、参道左手の誕生堂の上方には、太田稲荷大明神などの守護神をお祀りする太田堂が見えます。山の中腹にあるお堂への参道入り口は、日蓮聖人ご幼像の左後方にありますが、山崩れによって閉ざされた旧参道は誕生堂左手の山裾から登るもので、今も神狐の石像二体が入り口にあります。
太田堂の左手に回ると、正面に「大田新六郎康資墓」と刻まれた石塔が一基あります。高さは89センチほど、高さ15センチ余りの台石にのっています。左右両側面には、康資夫妻の法名・命日が「法林院武庵日高居士、天正九辛巳年十月十有二日」「法性院宗覚日悟大姉、天正十六戊子年六月十有四日」と刻まれています。この石塔は、四十七世貫首日濤上人が造立された諸国納骨塔と同型・同一寸法でしたから、同時に造立されたものでしょう。日濤上人の貫首在住は文化8年(1811)から文政8年(1825)までのことです。
太田稲荷は、この大(太)田康資が守護神としてお祀りしたことにはじまります。太田氏は、清和源氏の一流で、もともと丹波国太田郷(京都府亀岡市)を出自とする武士です。鎌倉時代の半ば、祖となった資国は、仕えていた上杉氏に従って鎌倉に住むようになったといいます。室町時代には、扇谷上杉氏の重臣として武蔵国・相模国を中心に活躍しました。特に康資の曽祖父資長(入道して道灌)は、江戸城をはじめて築いたことで有名です。
太田氏は代々日蓮宗を信仰し、曽祖父道灌は江戸城の鬼門鎮護のため平河村に本住院(現在の本所報恩寺)を開き、城中には鎮守として三十番神堂を建てています。祖父資康は三浦大明寺、父資高は報恩寺にそれぞれ葬られ、江戸時代孫の資宗は大名となり三島市玉沢の本山妙法華寺を代々の墓所としました。
康資は身の丈衆をこえ、膂力も人にすぎるという武士で、はじめ小田原の北条氏に属していましたが、後に叛いて安房国に遁れ、里見氏に属しました。永禄7年(1564)正月、里見氏と北条氏が雌雄を決して戦った国府台の合戦では、里見方の武将として奮戦し、大いに怪力を発揮しています。
後に、康資は剃髪して武庵斎と号し、天正9年(1581)小田喜(おたき)(千葉県夷隅都大多喜町)にて51歳で亡くなりました。墓は縁あって誕生寺に営まれ、このとき守護神のお稲荷さんもあわせて誕生寺にお祀りされることになったと伝えられます。太田稲荷は、特に海上安全守護に霊験があらたかであるといいます。