千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

>
>
>
36.諸国納骨塔

36.諸国納骨塔

祖師堂左手には新旧の墓地が拡がっています。旧来の墓地の一画にある歴代貫首墓地のはずれに、高さ89センチほどで正面に「諸国納骨塔」と刻まれた石塔があります。全国各地の檀信徒から納骨されたお骨の供養塔です。

亡き人の遺骨を霊場に納めて菩提を弔うことは、早くから行われています。高野山への納骨は有名で、一般にもよく知られているところです。日蓮宗における納骨は、日蓮聖人の時代に始まります。聖人は晩年の9ヵ年を身延山で過ごされました。この身延山の聖人のもとへと、信徒たは千里の路をも遠しとせずに縁者の遺骨を納めたのです。建治2年(1276)2月、九十余歳の母を亡くした富木常忍(ときじょうにん)は、下総国若宮(千葉県市川市)から身延山へと向かいました。そして「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽(たちま)ち息(や)む」(『忘持経事(ぼうじきょうじ)』)ことができたのです。弘安2年(1279)3月には、佐渡の阿仏房が亡くなります。お盆を迎える7月、子息の藤九郎守綱は「父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登て法華経の道場に此をおさめ」(『千日尼御返事(せんにちあまごへんじ)』)ました。一周忌にあたる翌3年7月、守綱は再び身延山へ登り父の墓へと参ったのです。

小湊は言うまでもなく日蓮聖人誕生の霊跡でしたから、各地の信徒によって納骨が行われるようになりました。誕生寺の納骨塔は47世貫首の智音院日濤(にっとう)上人が造立したものです。年紀はありませんが、日濤上人が貫首に在住中の文化8年(1811)から文政8年(1825)の間に造立されたと考えられます。

造立にあたっては、法華経が読誦されています。その数は塔の両側面に刻まれていますが、妙経5千部(法華経の全文を5千回)・寿量品1万巻・神力品9千巻・陀羅尼品(だらにほん)8万7千5百巻と、大変な数です。

塔の裏面には能応院日栄聖人の他、俗人3名の法名が刻まれています。これらの法名は、日濤上人の師範、両親などの縁者であると思われますから、その追善供養のために法華経読誦と塔の造立がおこなわれたものでしょう。

このように日蓮聖人の霊跡に納骨されることは、聖人に抱かれて回向供養をしていただくことにほかならないのです。