38.誕生寺の山号
総門を通って仁王門を見上げると、誕生寺の山号である「小湊山」の大扁額が目に入ります。この山号の額は、67世貫首今井日誘上人が67歳の時、すなわち大正9年(1920)に揮毫されたものです。
山号は、多くの寺院にある称号です。元々は中国において、寺の所在を示すために用いたことに始まります。後に禅宗の代表的寺院に五山・十刹の制度ができ、この制度が鎌倉時代に禅宗とともに我が国に伝えられると、禅宗寺院の寺号の上に山号が付けられるようになり、さらに他の宗派にも広まりました。ですから、寺院が山岳にあるという事ではありません。日蓮宗でも、清澄寺の「千光山」、池上本門寺の「長栄山」、総本山久遠寺の「身延山」などは、比較的よく知られています。
さて、江戸時代の資料の中には、誕生寺の山号を「高光山」と記したものが見られます。19世貫首の長遠院日遵(じょうおんいんにちじゅん)上人が慶安5年(1652)4月5日に認められたお題目には「高光山誕生寺常住」とありますし、延宝8年(1680)3月9日付の誕生寺年中行事・規則には「高光山年中行事」「高光山寺法」とあります。山号は「小湊山」ではなかったのです。
「高光山」という山号については、六牙院日潮上人が『本化別頭仏祖統紀(ほんげべつずぶっそとうき)』に、二世日家(にけ)上人が誕生寺を開創したことについて「預め扁して高光山日蓮誕生寺と呼ぶ」と記しています。つまり、誕生寺が開創されて以来の山号であったという訳です。
それでは地名の小湊を山号に用いるようになったのは、いつ頃のことでしょうか。誕生寺と両寺一根といわれる勝浦市興津妙覚寺の歴代譜には、誕生寺について「元高光山と云う、今廿五世日たい上人小湊山と呼ぶなり」とあり、25世寂如院日たい上人の代に山号を改めたとされています。
日たい上人が誕生寺貫首となったのは元禄9年(1696)のことで、同14年4月に遷化(せんげ)されています。貞亨4年(1687)の大鐘銘文には「高光山」とありますが、元禄11年の誕生堂半鐘銘文では「小湊山」とあることが記録されています。そして元禄13年12月の日たい上人自筆『市川村小湊村絵図裏書』には「小湊山廿五世」と署名されていました。幕府による元禄4年の悲田不受不施(ひでんふじゅふせ)派禁止による混乱から復興しようとする誕生寺にあって、日たい上人は日蓮聖人誕生の霊地「小湊」であることを高く掲げたのです。