39.江戸時代以前の歴代貫首
誕生寺を実際に開かれたのは、日蓮聖人の直弟子の中でも中老僧と呼ばれる日家(にけ)・日保(にほ)上人です。2人は勝浦市興津の領主佐久間氏の出身で、興津には妙覚寺を開いています。誕生寺では二世日家上人、三世日保上人と次第しますが、妙覚寺では二世と三世が入れ替わります。
日保上人には数多くの弟子がいましたが、中でも弁律師日澄上人、侍従僧都日明上人、権律師日恵(慧)上人、大輔阿闍梨日承上人、刑部阿闍梨日静上人の5人は他に抜きん出ていました。日澄上人は興津妙覚寺を継承して四世となりまた館山市法蓮寺を、日明上人は勝浦市浜行川(はまなめがわ)大聖寺をそれぞれ開きましたが、何れも日保上人を開山と仰いでいます。日恵上人は日澄上人から興津妙覚寺を継承して五世となっています。そして日静上人、日承上人は誕生寺を継承しました。
日静上人は、初め天台宗の僧侶でしたが、藻原(もばら)妙光寺(現在の茂原市藻原寺(そうげんじ))の門に転じて日蓮宗に改宗しました。さらに、妙光寺の門から日保上人の弟子へと転じたのです。過去帳には、貞治(じょうじ)2年(1363)7月1日に亡くなったと記録されていましたが、祖師堂に安置される蘇生願満の日蓮聖人像の開眼(かいげん)供養の法要を同年8月29日に行っていることが、同像に納められていた自筆の願文(がんもん)によって明らかになりました。この時、73歳であると記されていますから、正応(しょうおう)4年(1291)の生まれであることがわかります。
日静上人の後を継いで誕生寺五世となった日承上人は、日保上人の従兄弟、日家上人からは甥に当たります。興津妙覚寺の開基檀越(かいきだんのつ)である佐久間十郎左衛門重貞の子息が日保上人、そして日承上人は重貞の弟平次左衛門重則の子息、日家上人は重則の弟です。蘇生願満の日蓮聖人像には、お題目が書写されて納められています。その筆者の一人に兵部日承上人がいますが、五世日承上人その人に違いないでしょう。亡くなったのは明徳2年(1391)1月21日のことです。
歴代譜や歴代貫首供養塔によると、日承上人以降は六世日東上人、七世日耀上人、八世日堯上人、九世日詠上人、十世日蔵上人、十一世日出上人、十二世日威上人、十三世日賑上人、十四世日就上人と次第しています。しかし、亡くなった年などを勘案すると、八世日詠上人(文明12年、1480、寂)、九世日蔵上人(永正3年、1506、寂)、十世日堯上人(天文5年、1536、寂)と、八世から十世までの順序が入れ替わると考えられます。