40.江戸時代の末寺
誕生寺は日蓮聖人誕生の霊跡本山として、江戸時代には数多くの末寺(まつじ)を擁していました。その寺名は、末寺帳によって知ることができます。誕生寺の末寺帳は何度か作成されていますが、万治3年(1660)の末寺帳では、誕生寺の直接の末寺である直末寺が128ヵ寺、直末寺の末寺となる孫末寺が27ヵ寺、合計155ヵ寺が記されています。
江戸時代のはじめ、日蓮宗の勢力を殺ぐため幕府に利用された不受不施をめぐる問題は、寛文の惣滅と言われた同5年(1665)の不受不施禁止、その後に主張された悲田派も元禄4年(1691)に禁止され、以後は完全に禁止・弾圧されます。誕生寺は中山法華経寺や池上本門寺と並んで不受不施義を主張する中心的な本山の一つで、寛文の惣滅以後は悲田派を主張していましたから、当然の事ながら本山をはじめ末寺に至るまで大きな混乱の中におかれました。悲田派禁止に当たり、末寺の中で悲田派から改派するとの起請文を出したのは125カ寺でした。その様な混乱から立ち直ったであろう延享2年(1745)の末寺帳では、直末寺121力寺、孫末寺37力寺、合計158力寺と、万治3年の末寺帳とほぼ同数の末寺が記されています。これを地域的に見ると、武蔵国の44力寺が最も多く、次いで下総国23力寺、上総国18力寺、安房国15力寺、備中国13力寺、尾張国11力寺、備前国9力寺、摂津国5力寺などとなり、遠くは九州や東北地方にもあります。
このような末寺の中で、誕生寺の山内にある妙蓮寺は、両親閣と称されるように日蓮聖人のご両親の墓所であるという特別の由緒ある寺院です。さらに、元禄14年(1701)8月、26世貫首日孝上人の入山早々に定められた「小湊山山中掟」に「一、妙蓮寺は衆頂末頭たる事、古今勿論の事」と記されているように、全末寺の筆頭に位置付けられていました。
武蔵国の末寺の大方は江戸にありましたが、牛込原町幸国寺と浅草橋場妙高寺(現在は世田谷区に移転)は江戸末寺の筆頭(江戸末頭)に位置付けられています。
末寺には、本山と同様にその山内に塔頭(たっちゅう)(子院)を持っているものがあります。延享2年の末寺帳に拠れば、塔頭があるのは本山である誕生寺の10軒の他には、牛込原町幸国寺の2軒、浅草橋場妙高寺の1軒、下総香取郡岩部村大乗寺の1軒、備前邑久(おく)郡福岡妙興寺の2軒です。何れも軒数のみで、名称は書上げられてはいません。
延宝8年(1680)3月9日付『高光山年中行事』によれば、7月10日の建立開基日家聖人会は近国の諸末寺と檀越が、10月12.13日の祖師大会(そしだいえ)(お会式(えしき))は房州上総両国の諸末寺が登山して勤めるとあります。また、年末詳(江戸時代)の『小湊山年中行事次第』によれば、2月16日の日蓮聖人御誕生会、10月12.13日のお会式には、登山して法要に出仕するように房総の末寺へ案内する回状を出すことになっていました。本山の年中行事の中でも、特に重要な行事は、末寺が登山して勤める事になっていたのです。