41.江戸時代の塔頭
身延山をはじめ池上本門寺、中山法華経寺などにお詣りすると、それぞれの山内に○○院や○○坊といった名称の寺院がいくつもあることに気が付きます。塔頭(たっちゅう)(塔中)や子院と呼ばれ、本山の一部を形成する、いわば本山の内部に創設された寺院です。本山の運営を担い、宿坊などの役割も果たしてきました。
誕生寺の塔頭は、明治以降に廃絶して現在一ケ寺もありませんが、江戸時代の木版刷『小湊山絵図』を見ると「坊中」が描かれています(頁下写真)。絵図は俯瞰図ですから正確な位置は判然としませんが、現在の総門前から小湊神社に至る道路沿い、小湊港に面した辺りにあったように見えます。
元禄14年(1701)8月付「小湊山山中掟」によれば、それぞれの住職が連判を加えている西之坊、浜之坊、奥之坊、辻之坊、橋之坊、脇之坊、清水坊、滝之坊の八坊、さらに本文に坂本坊、岸之坊の名稀が記され、合計十坊の塔頭があったことがわかります。このうち西之坊、辻之坊、坂本坊、岸之坊は四院家と呼ばれて重要な役職に就き、その中でも器量の優れた人物が一院となって山内を主導しました。また、四院家の住職は、年老にしたがって院号を称することを許されていましたから、西之坊の住職は「山中掟」に住行院日成と院号で署名しています。
寛政2年(1790)3月付「誕生寺僧職者書上」では、岸之坊、西之坊、浜之坊、辻之坊、脇之坊、坂本坊、清水坊の七坊に住職がいたことが記されています。生国はそれぞれ江戸小石川、甲斐国巨摩(こま)郡相又(あいまた)村、上総国夷隅(いすみ)郡植野村、甲斐国巨摩郡身延、安房団長狭(ながさ)郡小湊村、上総国夷隅郡刈谷村、江戸芝と記されていましたから、必ずしも地元の出身という訳ではありません。ちなみに四十二世貰首日沾上人は越後国、妙蓮寺住職日明上人(後の四十三世貰首)は美濃国が生国であると記されています。
塔頭の開創年代は殆ど未詳ですが、奥之坊については明らかになりました。十九世貰首の長遠院日遵上人が、慶安5年(承応元年、1652)3月28日、両親の菩提のために自ら開基となって建立したことを、同坊安置のために造立した日蓮聖人坐像に記していたのです。
十坊のうち浜之坊は、誕生寺の後背地の谷から流れ出し、現在の祖師堂と本院寺務所の間、さらに小湊神社の前を抜けて海へと注ぐ払川の川端にあつたことが、享保11年(1726)の『新屋敷割帳』への追加記事によってわかりました。
この他、辻之坊の日顗上人が安政4年(1857)朝尊堂を再建したこと、同坊の日住上人が安政6年に行われた蘇生願満の日蓮聖人像修復に尽力したことなどが知られます。
木版・小湊山絵図