千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

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42.江戸時代の寺領

42.江戸時代の寺領

江戸時代の誕生寺を描いた木版『小湊山絵図』によると、現在の総門辺りにあった黒門の前に「御朱印」と書かれた札が立てられていました。これは、誕生寺の寺領が朱印地(しゅいんち)であることを示しています。朱印地というのは、江戸時代、寺院や神社が徳川将軍から朱印状という文書を受けて認められた領地をいいます。将軍は、大名・公家の領地にも朱印状を出していますが、こちらは領分・家領といいます。

誕生寺の朱印地は七十石でしたが、これは里見氏に属し勝浦城を本拠とした正木氏からの寄進がもとになりました。天正8年(1580)正木頼忠は、内浦の郷小湊両谷田畑四十石と海上十石分を誕生寺に寄進し、その後、主君里見義頼も寺領として認める安堵(あんど)の黒印状(こくいんじょう)を誕生寺に与えました。慶長9年(1604)にも頼忠は、先君里見義康の菩提を弔うため市川において二十石を位牌料として寄進し、藩主里見忠義も安堵状を誕生寺に与えました。里見氏は慶長19年(1614)に改易、藩は取り潰しとなりますが、寺領はなんとか没収されずに済んだものでしょう。

誕生寺の寺領安堵の朱印状は、三代将軍家光のものが最初です。第十九世貫首日遵上人は、正保4年(1647)6月、寺社奉行所に寺領安堵の朱印状を下されるよう願い出、翌慶安元年7月17日付の朱印状が下されたのです。この朱印状は、慶安元年2月24日から翌2年10月24日にかけての日付で五十石以下と遠国の寺社に対する新規の寺領を認めた朱印状3152通の内の表でしたから、日遵上人の活動が功を奏したといえましょう。朱印状は、檀紙(だんし)と呼ばれる大型で皺がある厚手の紙に「当寺領、安房国長狭郡小湊内浦村の内七拾石の事、先規にまかせてこれを寄附せしめおわんぬ。全く収納すべし。並びに境内山林竹木諸役等これを免除す。有来ごとく永く相違あるべからず。てえれば、長日の勤行怠慢なく、仏法興隆の悃志(こんし)を抽(ぬきん)ずるべきの状、件(くだん)のごとし」と記され、宛先は「誕生寺」、将軍家光の大型朱印が日付の下に捺してありました。

次の四代将軍家綱の代替わりに際して出された朱印状は、寛文5年(1665)12月2日付です。寛文の朱印状を受けることについて、宗内では不受不施をめぐる問題があって論議を呼び、誕生寺をはじめとする数ヶ寺は後に悲田派と呼ばれることになります。その後、将軍の代が替わる度に朱印状を受けました。文政8年(1825)の記録によれば、惣名内浦の三ヶ村総石高が361石4斗5升、このうち誕生寺領の朱印地は小湊村が53石2升、市川村が13石9斗6合、内浦村が3石7升4合、この他に岩槻藩大岡主膳正の領分が内浦村に291石4斗5升あったことがわかります。

明治維新後、朱印地は新政府が各寺社に上地(あげち)を命じ消滅します。朱印状も上地と共に政府が回収しましたから、写しだけが伝えられています。