43.誕生寺と火災
誕生寺は様々な災害を被っています。その一つに、火災があります。なかでも元禄16年(1703)の大地震・津波から55年、諸堂も復興し大災害の記憶も薄れてきたであろう宝暦8年(1758)に起きた火災は、七堂伽藍が悉く灰燼に帰し、仁王門などが僅かに焼失を免れたという大きなものでした。この大火からの復興は並大抵のことではなく、代々の貫首上人をはじめ檀信徒の尽カにより、総門、鐘楼堂、誕生堂、釈迦堂、方丈等を経て、最後に現在の祖師堂が完成したのは弘化3年(1846)のことです。
宝暦の大火を遡る火災については従来知られていませんでしたが、江戸時代はじめの十六世守玄院日領上人の代にも大火があったことが判明しました。千葉県夷隅(いすみ)郡大多喜(おおたき)町平沢の妙厳寺に所蔵される古文書の中に、日領上人の書状一通があり、その中に火災のことが記されていたのです。
日領上人の書状は、仲秋廿冥(8月20日)付で、宛名に「諸山御中参御同宿中」とあり広く関係寺院に宛てられたものです。残念ながら、書状の常で年号は記されていませんが、十五世大妙院日然上人が亡くなった慶長18年(1613)10月以降、元和年間(~1623)の頃のものではないかと思います。
本文を見ると、「しかれば当寺旧冬炎上の間、一宇営葉の志をもって、去る月より大衆を召集すると雖も、元より謗地の儀、万緒不自由の間、修造もその便を失い候。希(ねがわく)は此の刻、御道徳の余光をもって信者方に勧進せられ、寸紙半銭を嫌わず一粒一穀を掠めず、御奉加資助においては、済々愚僧の大悦、梵閣成満も程あるまじく候」とあり、前年の冬に「当寺」が炎上したことが記されています。日領上人は署名に「誕生寺日領(花押)」、差し出しに「小湊」と記していましたから、本文中の「当寺」が誕生寺を指していることは明らかです。「炎上」という言葉や復興費用の奉加に苦心している様子から、主要なお堂が焼失するなど大きな火災であったことが窺われます。
この火災からの復興事業であったと考えられるのが、十八世貰首の可観院日延上人の事跡として伝えられる祖師堂の建立です。誕生寺には日延上人筆の寛永5年(1628)8月吉日付棟札(むなふだ)が伝わっていますが、その大きさや、工匠・瓦大工の名前が記されていることなどから見て、祖師堂の棟札であろうと思われます。棟札の願文には、多くの檀信徒の助力によって建立されたことが記されています。
二十五世日上人代の元禄13年(1700)『房州長狭(ながさ)郡内浦之内市川村と小湊諍論二付裁許絵図』には、境内中央に大きなお堂が一棟描かれていました。日延上人が復興に尽力した祖師堂の姿でしょう。
房州長狭(ながさ)郡内浦之内市川村と小湊諍論二付裁許絵図