46.江戸時代の伽藍―万仏宝殿
二十六世貫首日孝上人が誕生寺の情景を詠じた詩文は、当時の堂塔伽藍を明らかにする上で大変貴重です。『小湊山二十四境』には、千仏閣・多宝塔・万仏宝殿・鬼子母殿・祖師影堂・番神社など、お堂の名前が掲げられています。元禄15年(1702)の題であると記されていましたから、誕生寺に入山した翌年のことです。
弟子日心上人が記した日孝上人の行業記には「多宝塔・刹女堂・千仏閣・七面社五年を満たずしてこれを葺く。また万仏宝殿落慶す。鐘鼓響きを増し、壮観嶷然たり」とあり、日孝上人が諸堂整備に尽力された様子がわかります。その中でも、新たに完成させたお堂に万仏宝殿があったのです。
万仏宝殿は、宝暦8年(1758)の大火によって焼失したようで詳しい記録が残されていませんから、どの様なお堂であったのか判りませんでした。ところが、最近になって版木が伝わっていることが確認された年次未詳の木版『小湊山絵図』によって、明らかになりました。
絵図には、境内の中心にお堂が三棟並んで描かれています。このうち向かって左側の大きなお堂には「祖師堂」、中央の大きなお堂には「万仏堂」、そして右側のお堂には「はい堂」と注記されていlましたから、「万仏堂」こそ万仏宝殿であると考えられます(下写真)。
絵図にある祖師堂はいうまでもなく日蓮聖人をお祀りしたお堂、はい堂は位牌堂のことでしょう。万仏堂は、祖師堂と並んでいるところから、本堂の位置に当たります。日孝上人が著した『安房州小湊山鎮守弁天記録』に、「我としつき十方の衆檀と力をあわせて一万体の仏を造立し、そのうへ宝殿をも創建し畢りぬ」と記されていましたから、万仏堂すなわち万仏宝殿とは、言葉通りに釈尊の小像を一万体安置するお堂であったのです。宛先・年次共に未詳の2月14日付日孝上人書状に「来る十六日、八千体目の供養目出度く勤め申し候はん」と報じているのは、一万体に至る経過でしょう。また、同じく日孝上人は甲斐国一之瀬妙了寺隠居日量上人に宛てた年未詳2月21日付書状の中で、去年10月に入仏の法要を勤め、ありがたいことであったと報じていました。残念なことにお堂の名称は記されてはいませんが、万仏宝殿のことであろうと思われます。前述の記録にある弁才天が鎮守として安置されたのは、宝永4年(1707)5月のことでしたから、万仏宝殿が落慶したのは、宝永3年のことではなかったかと思います。
現在、祖師堂内の左上段の間には、何体もの小型の立像仏が安置されていますが、恐らく一万仏の一部分でありましょう。日孝上人が「万仏宝殿」と揮毫された書も、宝物の中に伝えられています。
日孝上人が「万仏宝殿」と揮毫された書 |
木版『小湊山絵図』 |