48.蘇生願満日蓮聖人像の修復
宝暦の大火によって焼失した祖師堂の再建は、天保3年(1832)の起工から14年、弘化3年(1846)3月に落慶を迎え、法華経千部読誦の大法要が行われました。現在も蘇生願満の日蓮聖人御尊像の前に安置されている、法華経並びに開結二経の写経十巻が寄進されたのも、この時です。
お堂の次は、いよいよ日蓮聖人御尊像(右絵写真)の番です。安政6年(1859)御尊像の修復が行われました。御尊像は貞治(じょうじ)2年(1363)に造立されて以来、室町時代には明応の大地震、江戸時代には元禄の大地震・津波、そして宝暦の大火と、幾多の危難を越えて来ましたから、時に応じて修復が行われてきたことでしょう。残念ながら、安政6年以前については記録が見当たりません。
この度の修復では、御尊像の胎内に新たに多くの物が納められました。法華経の写経をはじめ、五十三世貫首事感院日琢上人の曼茶羅本尊、塔頭(たっちゅう)辻之坊の日住上人や仏師高橋荘右衛門等の願文(がんもん)、和歌懐紙などです。日琢上人曼茶羅本尊は安政6年12月22日付、願文なども同日あるいは21日、11日付でしたから、修復が完成したのは年を越して安政7年(3月に改元して万延元年)の事ではなかったかと思います。
修復に当たっては、幸国寺二十一世日定上人、誕生寺院代の一事院をはじめ日琢上人のお弟子たちが多く結縁(けちえん)しましたが、中心的な役割を果たしたのは辻之坊の日住上人です。上人は五十二世貫首日符上人の付弟で、この時27歳。上人の願文には、自身の生家である平田家の先祖、両親をはじめとする縁者、出家以来の檀越である椙崎家・森田家等の物故者の追善菩提と家門繁昌・子孫長久、自身の檀林における学業と出家の大願の成就、更に歌道・筆道の達成が祈念されています。御尊像修復という特別な機会に巡り会えた慶びを「時に逢ぬるうれしさに」と詞書きして「幾千代もか(変)はらぬ松のふかみとり(深緑)今日よりのち(後)は万世(よろずよ)やへむ」と詠った和歌懐紙も、納めています。日住上人の詠歌の号は、水明楼歌澄です。
修復を手がけたのは江戸下谷(したや)(台東区)に住む仏師の高橋荘右衛門政明と子息の平之助政伴です。政明は大仏師を称していましたから、ひとかどの仏師であったことが判ります。お題目を書写して家内安全・子孫長久を祈念していましたから、日蓮宗の信者でしょう。
この後、安政の修復はいつしか忘れ去られ、再び明らかにされたのは平成3年の大修復においてです。