54.正木頼忠と誕生寺
戦国時代の房総で里見氏と同盟を結び、あるいはその麾下(きか)にあって活躍した武将に、正木(まさき)氏があります。江戸時代、誕生寺が幕府から受けた朱印状は海陸七十石でしたが、これは正木氏から寄進され里見氏から黒印状を受けていた寺領が認められたものです。
正木氏は、相模国の武士として鎌倉以来の名族である三浦氏の末裔であるといわれ、安房国正木郷(館山市)に拠ったところから正木を称しました。いくつかの系統に分かれますが、小田喜(おたき)城(夷隅郡(いすみ)大多喜(おおたき)町)を本拠とした正木氏は里見氏も一目置く大きな力を持ち、大膳亮(だいぜんのすけ)時茂は槍の名手として有名でした。その弟時忠は勝浦城(勝浦市)を本拠とし、別家をたてています。
勝浦正木氏は、本家とは独自の道を歩み、一時は小田原の北条氏と友好関係を結びます。この頃、時忠の継嗣である時通が父より早く天正3年(1575)8月没に没したことから、北条氏のもとで人質となっていた頼忠が帰国して兄の後を継ぎます。頼忠は、はじめ邦時といい、左近大夫と称し、里見八勇士の一人として活躍しています。頼忠が最初の妻との間にもうけた子供には、紀州徳川家の家老となった三浦為春、そして養珠院お万の方がいます。
天正18年(1590)、里見氏は徳川氏の関東入部とともに豊臣秀吉から上総の領地を没収されます。この時、頼忠も勝浦を去り、里見氏の客臣となり二千石(後に千石)の扶持(ふち)を得、安房郡成川(なりがわ)村(鴨川市)に住しました。慶長10年(1605)頃に入道し、環斎と称しています。里見氏が慶長19年(1614)に改易(かいえき)された後は子息為春と同居し、元和5年(1619)為春の主君頼宣の新封地である紀州に赴きました。そして元和8年(1622)、72歳で同地に没しました。法名は、天正末年の頃にはと称していましたが、了法院日正大居士と改められています。正木氏は代々日蓮宗の信仰に篤く、頼忠は父時忠(法名は威武院殿正文日出居士)並びに代々の菩提のために威武山正文寺(安房郡和田町、誕生寺末寺)を建立しています。天正8年(1580)には、五十石の寺領を誕生寺に寄進しています。寄進状に「今度の立願」と認められていますから、特別な祈願があったのでしょう。同11年には、誕生寺と領主里見義頼の仲介の労を執っています。
誕生寺には頼忠から天正20年(1592)正月に寄進された紺紙金泥の法華経八巻が伝わっています。兄時通の署名と頼忠(邦時)の署名がある法華経八巻も伝えられており、やはり頼忠が寄進したものでしょう。この他、境内には、江戸時代前期に建立された供養塔があります。