55.三浦為春と誕生寺
紀州徳川家の家老となった三浦為春は、前に紹介したように勝浦城主であった正木(まさき)頼忠の長男です。父に劣らず、日蓮宗を篤く信仰していました。誕生寺との関係も、深いものがあります。
為春は、父が北条氏の人質となっていた小田原で、天正3年(1575)に生まれました。慶長3年(1598)父に代わって徳川家康に召出され、上意をもって正木を改めて本姓三浦に復し、三千石を拝領しました。同8年(1603)妹お万の方の産んだ長福丸(後の紀州徳川家初代頼宣)のお付きとなります。以来、頼宣の側近として仕え、また八千石に順次加増されています。元和5年(1619)頼宣が紀州に封ぜられると、主君に随って和歌山に移り、那賀郡貴志庄に領地を賜わりました。武道に長ずるばかりではなく、書に秀で、文学にも造詣が深く紀行文、俳諧集、連歌集、和歌集、小説などを著しています。
為春は、父頼忠が元和8年(1622)に没すると、翌9年には父(了法院日正居士)の菩提のため紀州上野山村に日正山了法寺を創建しました。さらに寛永4年(1627)には、江戸麻布桜田町に日通山妙善寺を創建しています。この二ヵ寺の開山には、何れも誕生寺二十世興善院日為上人(1582~1648)を迎えていました。また寛永4年8月には、入道して循庵定環と号し、法号を妙善院日曜と称しましたが、この時の戒師も日為上人であったと思われます。了法寺は後に天台宗に改宗されますが、為春が願主となり日為上人が開眼した絵曼荼羅が伝えられています。
誕生寺に伝わる日蓮聖人御真蹟断簡には、為春の裏書が記されているものがあります。正保3年(1646)2月16日付で「不思儀(議)の機縁を以て親子の契約を仕るに依って、その験として此の御消息一幅を付与せしめ畢」とあり、宛名は「通玄院日運老」と記されていました。これは誕生寺二十一世通玄院日運上人(1604~1663)のことです。為春は、日運上人と親子の関係を結んでいたのです。
この他にも、為春の発句集『発句帳』には「房州小湊誕生寺之貫主来臨の時」と詞書きのある句「漕とめよ出つゝ月をみなと舟」、和歌集『嘲詠集』には「運師(日運上人)東下向餞別」と詞書きのある歌「わかれても又や逢んの頼さへたえはてにたる老の身ぞうき」などが収められており、誕生寺歴代貫首との深い関係が窺われます。
寛永20年(1643)夫人が先立って没しました。そして為春が没したのは承応(じょうおう)元年(1652)7月2日のことです。80歳でした。法号は生前の妙善院日曜から大雲院日健と改められています。