56.前田家寿福院夫人と誕生寺
誕生寺には幾本もの法華経が伝えられていますが、その一つに十七世貫首不軽院日税上人によって寄進の銘文が記された木版刷の八巻本があります。銘文を見ると、先ず「松平筑前守殿御老母様、房州小湊高光山誕生寺え御寄進の御経なり」と寄進者と誕生寺へ寄進されたお経であることが明記され、続いて寄進の趣旨が「右御志は、現世安穏後生善処、御一門繁栄、御寿命長遠、御信力増進のためなり」とあり、元和8年(1622)孟(初)秋吉辰の日付が記されます。
松平筑前守については、元和8年という日付から、加賀百万石として有名な金沢藩前田家の第三代藩主利常であることがわかります。利常は初代藩主利家の子息で文禄2年(1593)の生まれ、慶長6年(1601)二代藩主であった兄利長の継嗣となり、同10年(1605)襲封に先だって将軍より松平の称号を賜り筑前守と称しました。その後、寛永6年(1629)に仰せにより肥前守に改めています。利常の母は、利家の側室で、名をちよ(千世・千代保)といい、寿福院また東丸殿と称しました。したがって、法華経を寄進したのは、金沢藩第三代利常の生母寿福院であったのです。
寿福院は、大変篤く日蓮宗を信仰し、慶長8年(1603)能登の滝谷妙成寺(みょうじょうじ)を菩提所と定めています。これ以降、妙成寺には本堂をはじめとする諸堂(現在、国の重要文化財に指定)が、前田家によって次々と建立されていきました。なかでも、五重塔は寿福院の発願によるものです。妙成寺の他にも、身延山に利家の菩提のために五重塔、奥の院祖師堂及び拝殿を、また京都妙顕寺に本堂及び五重塔を建立しています。寿福院の生家上木家は、越前国府中の経王寺を菩提寺とする日蓮宗で、寿福院の近親者には尾張妙(法カ)輪寺日芸上人(兄)、妙成寺十四世日淳上人(兄)、同十五世日条上人(甥)、同十六世日豪上人(養子)、同十七世日伝上人(甥)など僧侶を輩出していましたから、信仰の程が窺われます。
子息である利常は、元和8年(1622)本阿弥光室の本願による中山法華経寺五重塔を寄進し、正保3年(1646)に同じく光甫が施主となった同寺の日蓮聖人御真蹟大修理に本願主として資助するなど日蓮宗のために大きな力を発揮しますが、このような寿福院の信仰を強力な背景としたものでしょう。
大名の妻女は人質として江戸で暮らしましたが、寿福院も慶長20年(1615、元和元年)に正室芳春院に替わって江戸住まいとなりましたから、誕生寺に法華経を寄進したのも江戸に移ってからのことです。亡くなったのは寛永8年(1631)3月6日、61歳でした。池上本門寺で荼毘(だび)に付された後、国元の金沢経王寺にて再び葬儀が行われ、遺骨は妙成寺に納められ墓塔が営まれました。法名は寿福院殿華岳日栄大姉です。