57.梵鐘と松寿院夫人
仁王門をくぐり祖師堂に向かう参道の右手には、鐘楼があります。建物は四十七世日濤(にっとう)上人の代、文化年中の建立と伝えますが、梵鐘は戦後の昭和24年に再興されたものです。それ以前の梵鐘は、昭和17年に戦時供出されて伝わっていませんが、明治44年(1911)に貫首となった六十七世今井日誘上人の代に新鋳されたものです。
日誘上人の代より前には、江戸時代の梵鐘がありました。この梵鐘の銘文は幸いなことに『小湊大観』に収録されており、貞享4年(1687)9月、二十三世日近上人代のものであったことがわかります。銘文の冒頭には「興聖院殿故拾遺中務大輔忠知朝臣華岳宗栄大居士は、蒲生の華冑なり」とあります。これは伊予国松山城主の蒲生忠知(がもうただとも1605~34)のことです。続いて「その後室清信女、彼及び一門の菩提の資糧として、梵鐘一口を鋳成し、もって安州小湊の霊窟に掛着す」とあり、忠知の夫人が夫と一門の菩提を弔うために、鋳造して誕生寺に寄進する旨が記されています。願主には「松寿院殿青山日縁」とあり、夫人の法名が記されています。
忠知は、織田信長次いで豊臣秀吉に仕え有力大名となった蒲生氏郷(うじさと)の孫です。寛永4年(1627)兄の忠郷が没すると、跡継ぎが無かったために出羽国上山(かみのやま・山形県)4万石から蒲生家を嗣ぎました。この時、蒲生家の会津若松60万石は収公され、代わりに伊予国松山20万石と先祖ゆかりの近江国蒲生郡日野4万石の計24万石が与えられました。ところが、寛永11年(1634)8月18日、忠知は30歳という若さで江戸藩邸に没し、跡継ぎが無かったために蒲生家は絶家となったのです。
忠知の夫人は磐城平の大名内藤政長(1568~1634)の息女です。夫の死後、落飾(らくしょく)して正寿院と号し、元禄13年(1700)6月26日に没しました。この正寿院が松寿院であることは、銘文から明らかです。
松寿院夫人については、供養塔があることが判明しました。無縁墓地頂上の祖師堂よりにある石塔の一基がこれで、台石を含めた総高は1メートル71センチ、塔身の正面に「松寿院殿青山日縁大姉」と刻まれています。その左側面には「法華首題一万部書写之大行人」とあります。題目一部の書写とは、法華経一部約7万字を経文ではなく題目の7文字によって書写することで、一部は一万遍となります。したがって、一万部は題目一億遍の書写です。毎日、日課として題目の書写を続けていたに相違ありません。松寿院夫人は、寄進の丹精を凝らしたばかりでなく、大行人と称されるにふさわしい信仰者であったのです。