58.水戸光園と二十六世日孝上人
天下の副将軍・水戸の黄門(こうもん)様として有名な徳川光圀(1628~1700)は、儒学を奨励し、自らの墓を儒教式にしたように、水戸藩主として公式的立場では儒教を重んじていました。
その一方で、法華経信仰と大変深い縁があります。生母靖定夫人(久昌院)の菩提寺で水戸にあった日蓮宗経王寺を常陸太田に移転し、新たに大伽藍を建立して久昌寺(きゅうしょうじ)を開き、17回忌である延宝5年(1677)には年回法要を盛大に営んでいます。その後、寺の境内に檀林を開設し、元禄6年(1693)には校舎を整備して三昧堂檀林(さんまいどうだんりん)と名付けました。また、母の供養のために、まず忌中、次いで三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌と都合7回も法華経を書写しています。これらの行動は、熱心な法華経信仰者であった母への並々ならぬ孝養心が源となったものでしょう。
光圀自身の信仰については、藩主引退後の側近くにいて深い交流を結んだ皆如院日乗上人が、晩年の言葉を書き留めています。幼い時に、養珠院お万の方の仰せによって身延山二十六世日暹(にっせん)上人から法華経受持の式をうけ、後には身延山三十一世日脱上人、さらに京都本圀寺二十世日隆上人からも同様の式をうけたこと、ここ数年は、毎朝手水(ちょうず)を使った後、法華経を頂戴しお題目を十返づつ唱えていること、などです。しかし、このことは日乗上人に、他言しないよう固く口止めをしています。
光圀と交流を結んだ高僧は、前述のほかに身延山三十世日通上人、岩本実相寺十五世日進上人、平賀本土寺二十一世日信上人、京都本圀寺十九世日廷上人などが知られますが、誕生寺二十六世日孝上人もその一人です。
日孝上人の漢詩や文章を集めて弟子の日心上人が編集した『水雲集』二巻には、光圀との交流を示すものが多く収録されています。「常陽侯の佳招を謝する詩並に叙」「水戸の久昌寺」「瑞龍山」「西山の眺望常山公に呈す」「水戸久昌寺の法会八首並に叙」「常陽西山公を訪う」「西山公の疾を問う」「西山公を悼む」「西山の旧居を訪う」などです。表題にある常陽侯・常山侯・西山公は、いずれも光圀を指します。「大守駕を賜て勝地を遊覧す、詩もって謝を伸ぶ」のように光圀の「答書」が付けられている場合もありました。同書収録の伝記にも「常陽侯光国卿・・・・・・師の風を介を馳せ、之を招いて首座位に充つ、礼遇最も渥し」と三昧堂檀林の首座に招かれたことが記されています。誕生寺の宝物にも、光圀から日孝上人に宛てた6月18日付書状が伝えられています。