60.日蓮聖人御真蹟と水戸綱条夫人
誕生寺には、多くの貴重な御宝物が伝えられています。その中でも日蓮聖人の御真蹟は、最も大切に守られてきました。御真蹟は全て軸物に表装されていますが、『富城(とき)殿女房尼御前御書』と呼ばれる料紙二紙に認められた御消息、『法華玄義(ほっけげんぎ)』などの仏教書から重要な文章を抜き書きした要文集(ようもんしゅう)の断片、「法花経は一代...」と料紙の冒頭にある御消息断片の合計三幅は、江戸時代の表具で仕立も立派です。表具に用いられた裂(きれ)には丸に三つ葉葵の紋が入れられていますから、徳川家や松平家に縁があることがわかります。
表具の裏面をみると、三十世日浄上人によって、三幅ともに修復された経緯が細かに記されています。享保10年(1725)の春、誕生寺の蘇生願満の日蓮聖人像、御宝物が江戸で出開帳された時のことです。4月8日、聖人像を水戸徳川家の屋敷にお移しし、三代藩主であった故綱条の夫人本清院が拝されました。この時、御真蹟三幅も一緒に拝見された本清院は、表装が粗末であることは見るに忍びないと、表装等一式の修復を寄附されたのです。
本清院は季姫といい、今出川(いまでがわ)右大臣藤原公規の娘です。延宝6年(1678)京都から江戸に下り、20歳にして綱条(つなえだ)の夫人となります。綱条とは3歳違いの年下でした。当時の大名の夫人は、例外なく江戸の藩邸で暮らしましたから、季姫も同様です。
今出川家は、菊亭家ともい、公家として摂関家に次ぐ高い家柄で、太政大臣を極宮として大臣・大将を兼ねる清華家(せいが)家の一つです。代々法華経信仰に篤く、京都鳴滝三宝寺を菩提寺としています。京都本禅寺を開いた日陣上人(兼季の娘の子息)、京都本圀寺十七世日桓上人(季持の弟)など、高僧も出していました。
水戸家も法華経信仰と大変縁が深く、藩祖頼房の生母は養珠院お万の方、二代光圀の生母は久昌院と、何れ劣らぬ信仰者でした。光圀も、母の菩提寺として久昌寺を建立、三昧堂檀林を開設して高僧を招き、また日乗上人との深い交流はよく知られています。三代綱条も、池上本門寺に経蔵や、鬼子母神堂(藤堂高敏と共に願主となる)を寄進していました。このような中にあって、季姫自身も法華経信仰を一段と深めていったことは、御真蹟の修復や、紺紙金泥の写経を一心に進めていたことからも窺えます。御真蹟修復から7年の後の享保17年(1732)4月22日、74歳で江戸小石川の藩邸に没しました。法名は正智院妙行日解大姉です。